無の会のアイコン

無の会(仏の智慧)



(偉大なるお釈迦様のこころ)



ブッダの祈り

***** あなたの夢を応援します。 *****

心 得




「無の会」とは(1)  「無の会」とは(2)  「無の会」とは(3)  ←戻る





1) 「誕生記−1」

 私がこの「無の会」を思い立ったのは今から20年前になります。

 当時はインターネットなどあったかも知れませんが私は知りませんでしたし、サイトを作ることなど思いもしませんでした。

 ところが今になって、世の中がなにやら殺伐とし、経済活動も低迷し、私自身が事業に失敗してその日の生活にも事欠く中で、数年来サイトの運営をしてきた経験から当サイト「無の会」を立ち上げた次第です。

 表題にもあります「無」は佛教、お釈迦さまの教えからとっています。

 なるだけ「無」であろうとして、"ないないづくし"を良しとします。

 それでも宗教か、と思われるでしょうが、信仰とは元々精神活動であり、外からは見えないものです。 それに、その信心の深さと広さは他人からは計れません。 また計る物差しもないはずですが、それが集団化すると他人と競うようになり、本来の「佛教」のすがたからはずれていると思います。

 なのに「・・の会」と集団を意味する名称にはなっておりますが、基本は「信心する個人」であり、その個人の集まりが「・・の会」をかたちづくるという構図です。

 「信心する個人」の集まり<ですので"組織する"ということは考えていません。 故にそれを統括する人物や団体は作りません。 

 当然なことですが、既に何らかの団体に所属していても問題ありません。 また、会費やお布施と言った金銭的・経済的負担はありません。

 佛教は学問的知識を習得するものではなく、ブッダの教えを実際の生活の中で実践するとか活用することが大切です。
[↑ 戻る]



2) 「誕生記−2」


  私がそもそも宗教に興味を持ったのは2つの出来事がきっかけです。 ひとつは、仕事仲間の親方が病気になられ医者からも見離された彼が、ある宗教団体の信者さんの協力で全快されたこと。 もうひとつは息子が交通事故にあって入院したことだ。 

 親方の話によれば、手の自由が利かなくなり運転も出来ず、医者にかかったが原因がわからずなすすべを失った。 一時は自殺を考えるまでになった時、奥様が自分がやっている宗教があるが受けてみたら、と進めたと言う。 彼は半信半疑であったが、医者にさじをなげられ回復の道がないならば、うそでもいいからやってもらおうと頼んだそうです。 信者さんたちが集まり皆でお題目をあげたそうです。

 2時間ばかりのお題目であったが、それを境に病状が回復していったそうです。 1ヶ月ぐらいで運転も出来るようになってしまうほど。 かかりつけのお医者さまもびっくりされるのど。 彼は感激し「奇跡が起こった」とその宗教の虜になったのです。 一方で、私の母方のお姉さんも同じ宗教を拝んでいたし家族全員が入信しているくらい熱心な信者さんのひとりであるが、このお姉さんの病気が一向に治らない。 これはどうしたことだろうか。 方や2時間ほどのお題目で"奇跡"がおこり仕事が出来るまでに回復した、方や長年熱心に信心したのに回復しない。なぜなんだ、違う宗教ならまだしも同じ宗教で熱心にお題目あげているのにこの違い。

 不思議でならなかった。 世には、歩けなかったひとが信心で歩けるようになった話はごまんとあります。 奇跡がおこったとしか言いようのない事実があるのです。  この親方の場合がそうですし、私が関心を寄せたのは、事実のひとで本人が言うのですから説得力があるし、これまで一緒に仕事をしてきた親方の話ですから"うそ"だと思えない。 事実、その後、仕事をおやめになるまで一緒に現場で仕事をしていたわけですから。 (しかし、私には入信をすすめなかった。)

 一方のお姉さん(私のおば)は、病院で治療しておられましたから。

 このようにして、同じ宗教を信仰していながらご利益の違いに興味をもちまして研究することになったのです。

 息子の方はといえば、小学校入学前に交通事故に遭って入院したこと。 自転車に乗れるようになった矢先であり、自動車事故と聞いたときのはびっくりしたが、病院に駆けつけてみると、足の骨を折っているものの単純骨折で、ギブスで固めておけば直るとのこと。 こんな骨折事故は珍しいらしい。 薬もなし。 

 信心などしていないのに運のつよいこともあって、宗教のもつ不思議を感じた。 私の宗教の探訪が始まることになりました。

 佛教以外の宗教はあるのであるのですが、結局、佛教、ブッダの教えに落ち着いたと言うことです。 イエス・キリスト教では、無教会派を志向した「内村鑑三」の生き方、思想の影響を受けて、わたしの宗教を「無の会」と命名しているゆえんでもある。
[↑ 戻る]




3) 「無と無限」を考える

 これは私が考えた世界ゆえ、学問的に証明されたことでもなければ常識からはかけ離れたことでもあることを最初に断っておきます。

  佛教では「無」を、特に大乗佛教では重要視していますが、ここでは数学的な「零=0」、「無限大=∞」をベースに話を進めます。

 そこで、まず「無」を考える。 零=0 とは、"ない状態"を示している言葉、ないしは数学上の位置関係でもありますね。 そこには1(ひとつ)を加えることが出来ますが、逆に1(ひとつ)引くことは出来ない状態でもあります。 が、数学ではうまいことに−1のことを「虚数=J」として取り扱うことができますが、現実のなかでは出来ません。 つまり最初の状態として「零」存在している数や位置なんですね。

 (ここでは、ない(無)状態からどうして有(ある)状態に変化したのかという議論はここではいたしません。)

 次に、「無限大=∞」を考えます。 この世界は1(ひとつ)加えることも、減じることも出来るのですが、大勢にはほとんど影響が出ないほどの大数なので、結果は「無限大=∞」のままです。 つまりは「変化なし」という状態と言える状態t考えてください。

    0 −−−−−−−− ∞

 私たちはこの 「0」の世界と「∞」の世界のどこかに位置していると思います。

 皆さんは、この左の「0」と右の「∞」は両極端とみると思うけれども、これが「=(イコール;同値)」と言われると頭の中が変になるでしょう。 しかし、私には同じもののように感じるのです。 うまく説明できないけれども、佛教の教えを研究するとそう感じるのです。

 私はこの会のシンボルマーク(アイコン)を考えたとき、黒一色の部分と白一色とを真ん中あたりでくっつけました。 左の黒を「零」の世界、右の白を「∞」の世界としたとき、われわれの住む世界はこの真ん中あたりではなかろうかと。 この真ん中の線を佛教では「相をなす」といいます。 変化と変化のつなぎ目を「相」と捉えてのことです。
 無の会のアイコン
 図の左側の黒の部分に身をおいたとしよう、すると回り全部が黒一色ですから、"黒"を意識できません。 ちょうどわれわれが空気を意識しないのと同じです。 同じように右側の白の部分に身をおいたとすると、白が見えません。 魚たちが水を知らないように。 黒と白が分かる為にはその境目にいてどちらも見える(感じる)位置でないと分からないのです。

 次に、黒の世界を「零=0」とし、白の世界を「無限大=∞」としたとき、黒の世界に"1"なるものを加えると、その黒の世界で"1"なるものが出現(認識される)したことになります。 白の世界に同じように"1"なるものを加えても、その総和は「無限大=∞」ですから変わりません。 黒を加えたらと思いますが、黒は「零」ですから、そのままです。

 何かを加えてその変化を認識できるのは黒の世界、「零」に加えた場合だけだと理解できます。 逆に、黒の世界から"1"なるものを引くことを考えると、「無=0」の世界から"引くもの"があるのでしょうか。 あるとすると「零=0」だけです。 計算すると、0−0=0 やはり「零」となり、"引けない"事になるのです。

 話を続けます。 はたして黒の世界にいくらまで加えることが出来るでしょうか。 答えは「∞」まで。 それ以上は、いくら加えても「∞」。 つまり白の世界です。 加える数(ことがら)はないに等しい"=0(零)"と考えてもよいのではないかと。

 "ない世界"の黒と"すべてが有り余る"白の世界は「おなじ」ではないかと。 なぜ佛教の世界は「無=0」を求めるのでしょうか。 わたしは先ほど黒の世界と白の世界が同じだと言っていたではないかと。 そう、黒が黒のままなら、白が白のままならね。 加えるものがないときはそうなのだが、それに加えることを加味すればどうだろうか。 黒には「加えただけの」変化が生じますが、白には「加えても」その変化は「変わらない」となるのですね。 これらから、「佛教の世界は「無=0」を求める」のではないかと考えるわけです。

[↑ 戻る]

4) 「生と死」を考える

生と死の時間的経過図  
 ここで「生=誕生=+1」と「死=∞=0」を考えて見ることにしましょう。 誕生は言うまでもなくこの世に出た事をさす言葉ですね。 いうなれば"1を加えた"ことになります。 この数字がどんどん膨らんで成長するのですが、あるときその成長が止まるとき(止まったと思える状態すなわち無限大)があるのではないか。 それを「死」と称してもいいのではないか。

  人の場合をあてはめて、生(誕生)から死(死亡)までを「その人の人生」と呼ぶと思う。

 物事の変化をグラフにする

また、別の角度から見てみると、物事は、零=0と無限大=∞の間を行ったり来たりしながら時間をすごしていると考えてもよい。

 そうしたとき、われわれは生死を何回も繰り返していることもわかる。 そして、右図が正しいとすると、誕生は1回で、永遠の死も1回でともに値=零(0)の時に起こるのである。

生死の方はその間に「何回も繰り返している」のである。 先に誕生は「値=零(0)の時に起こる」と書いたが、実際はそうではない。 実際は生み出す母体があり、その元があるということです。 生命体でいえば、母親や卵がそうでしょうし、その元とは、受精卵、 その受精卵がそうなるためには・・・・・。 自動車で言えば、運転する人がいて、自動車を作る会社があり、それを組み立てる部品がある、という具合。 つまり、「値=有限値」で起こっているのである。 

 いくらでも分解できる。 そして「永遠の死」の方はと言うと、生命体で言えば「土に戻る、とか、灰になる」状態。 機械で言えば解体されてバラバラになることと同じ。 その間、修理されたりして、再利用されることもあるが。 つまり、"+1"であったものが"1"引かれて""0""になる。 それ以上のものであっても、""0""とみなされるから同じだ。 こうなると復活は永遠に不能になる。 絶滅した恐竜や絶滅種と同じで再生は出来ない。 将来的には、人工的に生命体を合成できるかも知れないがね。

[↑ 戻る]

5) 「奇跡は起こったのか」を考える

 はたして親方の病気は信心で「奇跡」が起こったのか。

 "奇跡は起こった"のだ。 本人も予期しなかったし、医者にも分からないが病(やまい)はその後快方し仕事が出来るようになったからね。 

 しかし、わたしは素直に信心のせいには出来ない。なぜなら、叔母の方の説明がつかないからだ。 あれだけ熱心に信心している叔母であればこそ"奇跡"が起こってもおかしくない。 いきなりの信心で、2時間ばかりのお題目で"奇跡"とは。

皆さんもそう思うでしょう? なにか、説明のつかない力か何かが作用したのではないかと。 私は思ったのだ。 自身の治癒力がそうさせた、と。 信心はそれを助けた、と。 ご本人は"奇跡"とお思いになっておられるのでそうしておく。 こちらも"治癒力"だとする証拠はないから。

 人間の体は複雑だからね。 もともと生命体には自己免疫、自己治癒力が備わっているが、それが"理性"や"感情"に左右され、ストレスやなにかで肉体をこき使うと細胞レベルで変調がおこり、自己治癒力が発揮出来ない状態が起こるのではないか、それを取り除けば元にもどる、と。 

 そのためには、"理性"や"感情"といった"脳"の支配を断ち切って、自然、つまり"神の世界"(自己治癒力が発揮出来る状態)に保つことが重要で、その為にお題目を一心不乱に唱えた事が結果として効果をを発揮した。 一方の叔母は、信心はするのだけれど、脳の支配(直りたい、直したいと言う意識)を受けての作用だから、細胞レベルでの反応は起こらない。 と、思うのだ。 

 息子の怪我については、偶然と言うべきかと思っている。 子供だからで、大人ならそうはならなかったと思う。

 その後、親方は信心を熱心にやったが、二度とは「奇跡」は起こらなかった。 叔母も「奇跡的」なことは起こらずこの世を去ったのである。 息子も今は成人し仕事に励んでいる。
[↑ 戻る]

6) ここで「宗教"無の会"」を考える

 わたしは、佛教という宗教を、ブッダ、お釈迦様の生きていた時代に遡って考えることにした。 あれから2千6百年経って末法の時代と言われているが、人の意識の上からは当時からあまり変わっていないように思う。

 経典が示す世界が今日なお続いているからです。 日本においても鎌倉時代、多くの高僧が分派して何々宗を開宗して今に至るが、その本流の源(みなもと)はインドであるから、直接的な佛教があってもいいとの考えである。

 現在の日本においては意識しないが、明治維新(江戸時代)以前は身分制度(カースト)がはっきり区別されていた訳だし、今日でも外国にあってはその制度が息づいています。 インドにおいてもしかりです。 にも関わらずその時代に身分平等を説いたのは"仏陀"だけである。

 ※上記の記述は、2010(H22).02.08 である。
[↑ 戻る]






心 得


***** 問い合わせ *****



仏教      大乗と小乗仏教    世界の仏教


(注) 当サイトは、特定の宗教・宗派を庇護したり他の宗教・宗派を退けるものではありません。 大勢の方が幸せになることを願って精神的活動を啓蒙しています。



-- ほとけの智慧をあなたに --

無の会EPA(むのかいエンタープライズエージェンシー)




**心 得**


「無の会」では、インドでお生まれになったブッダ、お釈迦様の流れを汲む宗教です。

しかも、日本仏教会に所属しない自由な発想による活動です。

ゆえに、固有の仏教施設や行事は必要としません。

御仏(みほとけ)の智慧を学び、実践することで、こころの安らぎと安心を得ます。

  (合掌)


お近くのお寺に出かけてお参りしましょう。


[↑ 戻る]

キャラクターボーイ2buddha

※IE.ver8で.png画像が表示されないようなので、.gif形式に変更。[2014(H26).10.12]


 
掲載20100129更新20100129ka更新2010.02.06ka更新2010.02.08ka更新2012.03.25ka更新2014.10.07kaM更新2014.10.12kaM


#mu012
南無阿弥陀仏